【特別企画】噺家が尋ね、噺家が語る

前座の頃、師匠の三遊亭 円丈は私によく写真を撮らせた。

「撮り方がわかれば、撮られ方がわかってくる」

おかげで近頃少しずつ被写体としてマシになってきていると思う。

このところ、インタビューを受ける機会が増えてきた。

なぜかは忘れてしまったがまだ私が前座の頃、笑福亭 鶴瓶師匠に勇気を振り絞ってインタビューについて伺ったことがあった。

「おみやげを持っていくんや。物やないで。話のおみやげ。そのインタビューでしか話さへんっていうのを一つでもええから」

同じようなインタビューを受けるとどうしても内容は同じになってくるが、この貴重な教えを頂いて以来、毎回見てくださるようなファンの方に向けて、そしてそのインタビュアーの方に向けて、必ず「おみやげ」を持っていくように心がけている。

あと他に何に気を付けているだろう…

どうすればより素敵なインタビューになるだろう…

そこで師匠の円丈に言われたことを思い出す。

「インタビュアーをやってみよう」

ということで、私、三遊亭 わん丈がおそらく人生最初で最後のインタビューを行いました。

お相手は私が一番尊敬している落語家の先輩です。

この方は長年住んだご自宅から、今年お引っ越しをなさいました。そこで掃除をしていたら、ご自身の若かりし頃のものすごい音源が出てきたそうです。

「池袋演芸場 十日間 三題噺」

「三題噺」とは会場のお客様からお題を3つ頂いて、そこから作る落語。新作落語の作り方として最も大変なもので、今でもこれをできる人は数少ない。

そんな離れ業を数十年前に10日間毎日、しかも寄席の主任というプレッシャーの中おつとめになりました。しかも厳しいお客様にその日の作品がよかったかどうかの投票までして頂いて。ちなみに9勝1敗だったとのこと。

そんな10作品分の高座と、なんと「お題取り」の様子までが10日間分全て録音されているそう。これは落語ファンとして、新作を作る者として、そして三題噺に挑む落語家として、とてつもなく貴重な資料。

「この三題噺の寄席は師匠が真打になられてすぐの頃ですか?」

「(昭和)53年に俺が真打になった時に分裂したから、落語協会が。(※落語協会分裂騒動:後に円楽一門会や落語立川流の発足にもつながる歴史的な出来事)それから他の寄席(鈴本演芸場・末広亭・浅草演芸ホール・池袋演芸場)に出ちゃダメだって言われて。

皆それぞれが違うんだ、思いが。最初は落語協会を乗っ取ろうみたいなことだったんだよ。立川のおっさんも(談志師匠)も圓楽さん(笑点の司会でもお馴染みだった5代目。円丈の兄弟子)も志ん朝師匠もさ。皆自分が会長になろうと思ってたんだから。志ん朝師匠はうちの師匠(三遊亭圓生)を尊敬しててついていきます…なんて言ってたんだけどさ。談志さんなんかは『圓楽よりも俺が先輩なんだし、俺が会長だろう』って思ってた。それなら会長は志ん朝に…っていうことになって、冗談じゃねぇよって。あの頃は皆エゴが出やすいというか、わかりやすいといえばわかりやすかった。欲望が剥き出しになるというか。そうすると圓楽さんなんか怒っちゃってさ…。しかし俺は圓楽さんみたいなキャラクターの人は、後にも先にも会ってねぇなぁ」

「談志師匠よりもある種豪快だったって言いますもんね」

「ああいう感じの人はいなかったなぁ。談志さんはちょっとせこせこしてる感じがするじゃん。圓楽さんは圓生に『師匠、違います』ってズバって言っちゃうんだから。そんな弟子いないじゃない。普通言えない。『ここは、こうした方が良いと思います』『そう?そうかい?』なんてね…すごいよね、圓楽さん」

…インタビューって難しい。
私は三題噺のことが聞きたいのに。当時を思い出して一気に熱くなって、話が脱線しているような感じがする。私もインタビューを受けている最中よく脱線するので早速勉強になってはいるが…

しかしこういう話が出るのも仕方がない。誰が誰に言ったのかなどの主格や目的格がわかりにくいのも仕方ない。注釈のカッコが多いのも仕方がない。だって師匠のお宅でいつも通りおかみさんが作ってくれた朝ご飯を頂きながら師弟で会話をしていたところに、いきなり許可を取ってレコーダーを回し始めたんだから。
師匠も普通のインタビュアーの方にだったらもっと噛み砕いて話しますよ。

ということで、改めて御紹介致します。

お相手は私、三遊亭 わん丈の師匠、新作落語中興の祖と言われている三遊亭 円丈(74)で御座います。

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それはもう「おみやげ」だらけのインタビューでした。

伺ってわかったのは、

1. 三遊亭 円丈は古典の名人三遊亭 圓生の弟子として前座・二ッ目時代を過ごして、真打直前で新作落語に本格的に取り組んだ

2. そしてそこからあの「落語協会分裂騒動」で落語協会から三遊協会に渋々移った

3. その後落語協会に復帰

4. ここでなんとか「落語協会に円丈あり!」とするためにこの「十日間三題噺」に取り組む

5. その後メディアに取り上げられていく

6. そしてあのフジテレビの「花王名人劇場」に出て一躍スターダム

という真打昇進前後5年ぐらいの流れ。

円丈はそこまで実感がなさそうでしたが、上記の流れの中でこの「十日間三題噺」は間違いなく今の三遊亭 円丈を形成する大きなポイントでした。

わん丈「それが昭和53年で、この三題噺は昭和55年で2年後ですから、師匠は真打になられて…」

円丈「(被せるように)今と違うんだよね。当時は(落語協会を抜けて)三遊協会ってところにいたから、実際寄席とか出るところがないわけ。孤児みたいなもんなんだよ。そういう状態が1年半以上続いたの。(師匠の)圓生に仕事があると、弟子を優先して連れていったりして、だから俺たちも仕事がぽつんぽつんとあるだけ。でもそれは芸人としては良い仕事じゃないんだよ。色んなところで仕事しないとダメじゃない?みんなと一緒にやんないと。三遊協会だけの仕事をしていると、三遊協会だけの芸になっちゃう。小さな芸になっちゃうんだよ。いろんな流派がいると、その中でゴチャゴチャして賑やかになる。だから昔は落語協会と落語芸術協会を比べると、芸術協会の方が小さかった。あそこは新作ばかりやってたから、新作で固まるようになっちゃった。だからあまり面白くなかった。柳家金語楼さんとかさ。『僕はね…私はね…』って”僕”とか”私”とかってそこだけ現代っぽいなぁと。俺たちが入門した頃は、そういう考えは古いんじゃないかってずっと思ってた」

わん丈「この三題噺の頃には、師匠はもう三遊協会から落語協会に戻られてたんですか?」

円丈「戻ってたけど、高座があるかどうかもわからない。冷や飯食わされたら食わされるの。その時に自分で何か持ってないと、『あいつは面白い奴だ』と必要とされない。この少し前落語協会に戻りかけた頃、まだ寄席に出してもらえていない時、代演みたいな形で寄席に出たことがあったんだよ。その時にさ、自分の中でも一番自信のある新作をやるんだよ。当時の落語界のことをテーマにした新作の『パニックイン落語』とかやってさ。ウケるわけだよ。ウケることはわかってたからさ、俺は。そしたら『あいつウケるんだなぁ』って仲間とかに思ってもらえるようになる。そういうことをいつも考えてたなぁ。だから高座に上がる時は、人とどう差別化を図るかをいつも考えてる。だから着物にワッペンだよな(当時円丈は着物にワッペンを縫い付けていた。しかも絹の高級なものに。そして眼鏡をかけたまま落語をするという当時画期的なスタイルで高座に上がっていた)。外見から。最後は髪型を半分で分けた、七三じゃなくて。最初の頃はマントをつけてた。細工して高座の方まで飛んでいくようにしたり」

わん丈「それウケたんですか?」

円丈「受けないよ(笑)…1,2回やったけどうまくいかなかった(笑)」

わん丈「でもインパクトはありますよね、何するんだろう?って」

円丈「その時のマントよりも、怪人二十面相みたいなマントで高座に上がった時はウケたな。渋谷の実験落語でやった時」

わん丈「実験落語はいつ始まったんですか?後には春風亭昇太師匠とか柳家喬太郎師匠とかも影響を受けられた会ですよね?」

円丈「昭和50年代の初めの頃だな。落語協会分裂の前。俺がまだ(二つ目時代)『ぬう生』って名前の頃。ぬう生最後の1年は、新作も古典もやって生きてきた。その時は師匠(圓生)も生きてたし、俺も古典やってた」

わん丈「師匠は実は古典の力も認められての抜擢だったんですよね。圓生師匠の前では新作はやらなかったんですか?」

円丈「当たり前だよ。見せたこともなかった。でも見ちゃったことがあったみたいで、そのときの『即興詩人』て新作を喜んでくれてたらしいよ。誰かに電話して、『うちのぬう生ってやつの新作は面白い』って言ってくれてたらしいから」

わん丈「おー…」

円丈「でも圓生の目の黒いうちは眼鏡を外して、黒紋付きの羽織を着て、下は柄のある着物で。今とは全然違う。その後脚光を浴びた時は、黒縁の太い枠のある眼鏡をつけてた。黒ぶちじゃないんだ、あれ。緑の濃い奴なんだよ。しかも女物。眼鏡屋に買いにいったんだけど、派手なのがないんだよ。男でもつけられる派手なものがないかな?と思ったら、黒ぶちに見える太い濃いグリーンの枠の眼鏡をかけたんだよ。結構目立つよな。それもさ、昔の圓朝祭で5000円で売っちゃった(笑)。すぐ売れちゃった。レアなのか、もう少し値段が上でも売れたんじゃないかな。そういうことひっくるめて、いつも考えている。何をすればいいのか」

わん丈「新作で売れるためにってことですよね?」

 
円丈「そのためには外側をどうするかとか。まず高座をどうするかということをいつも考えていた。考えていたことは異質だった。椅子に座ってやらなきゃおかしいだろ?現代落語とか言うんだったらさとか。ただその時、(桂)文珍さんに言われたことがあるんだよ。『新しいみたいに言われるけど、噺家がスーツ着て座って新しいことをやってるから新しいように見えるだけで、新しくもなんともない』って言われてね。だから元に戻したの。形としてさ、決まらねぇんだよ。何かプラスの良いことがあるわけでもなくて。高座で走り回るわけでもないしどうってことない」

 
わん丈「そんな心の中で新しいことをやってやるぞって静かに闘志を燃やしてた時期が、二ッ目最後の頃で、その後真打になろうってときに師匠の著書『御乱心』でも有名な分裂騒動になって…そこから落語協会に戻ってこられて、池袋で十日間三題噺。この時は寄席でトリですよね?戻って来られて初めてのトリでしたか?」

 
円丈「そう。戻ったのとほぼ同時期じゃないかな」

 
わん丈「戻ってすぐにトリをとれるってすごいことではないでしょうか?めちゃくちゃ期待されているというか」

 
円丈「期待されているというか、逆に協会側は戻ってきた奴に対して『俺らは心が広いんだよ』って見せたかったんじゃないか?」

 
わん丈「(笑)。その時師匠は『絶対ここで結果を出さなきゃ』って思って、三題噺をやられたんでしょうか?」

 
円丈「トリはそのうちやるだろうと思ってたから、トリを任せてもらえたら絶対やろう!と。自分を売り出すことを考えていた。三題噺の後も池袋ではプロレス落語とか色々やってんだよ。芸人が2人出てきて、負けたらお客さんに100円でローソクを売って垂らされるっていう…(笑)」

 
わん丈「本当のローソクですか?めっちゃ熱いじゃないですか(笑)」

 
円丈「少し距離を置いて垂らせば、ポタって落ちるまでに冷めるんだよ。やってみりゃわかる」

 
わん丈「僕はやりませんよ。その熱くない距離を発見するまでに結構火傷しますよね」

 
円丈「一番熱いのは直にボタボタボタっと垂らされる。これが一番熱い」

 
わん丈「当たり前じゃないですか(笑)」

 
円丈「ところがお客さんはそれを面白がってやる人がいるんだよ。これがまた熱い熱い!なんてことするんだバカヤロー!って(笑)」

 
わん丈「それを独演会とかじゃなくて、普通の寄席のトリでやられてたんですよね?」

 
円丈「池袋の進藤さん(※当時の支配人)に言うと、よしってなんでもやるんだよ」

 
わん丈「すごいですね、池袋演芸場」

 

円丈「そこでリングみたいなの作ってさ、棒や水道のホースを買ってきて。で、俺たちは客席から登場するんだよ。俺は謎の怪人役。鎖持ってお客さんに飛びかかっていったり、お客さんが何か食べているとそれを取り上げたり。盛り上がったよ」

 
わん丈「寄席の仕組みが今と全然違うんですか?トリでも、その前の出番には先輩方や大師匠方がずらっといらっしゃると思うのですが…」

 
円丈「いても別にね…。ロープや棒なんてサッと立てるだけだし。トリというか、中入り後からそんな感じだったよ」

 
わん丈「当時はそんなことができたんですか!?10日間ですか?」

 
円丈「そうだよ。当たり前じゃん」

 
わん丈「師匠以外の方が池袋でトリを取られる時、同じようなことは…」

 
円丈「たぶんできなかっただろうな」

 
わん丈「それはなぜですか?」

 
円丈「俺がそういうことをやっただけ。他の人はやる勇気もなかっただろうし」

 
わん丈「進藤さんがいらしたから、今でも池袋は新作落語家が普段やらないことをやるみたいな感じがありますよね。僕も池袋はなんかエッジのきいたことをやりたくなっちゃいますもん。お客様にもそういう雰囲気が伝わっていると思うんですが、当時が始まりだったんですね」

 
円丈「池袋がイベント的な雰囲気を持ってたんじゃないかな。池袋という土地柄があったのも影響してるんじゃないかな」

 
わん丈「で、トリをやる時にまずは十日間三題噺をしようと…」

 
円丈「俺は出戻り組だから、そこで寄席全体の顔付けをこのメンバーにしてくれとは言えないのよ。だから自分のできる範囲だと、三題噺とか」

 
わん丈「後にプロレスをやった時みたいに、まだその時は協力はしてくれなかったと?」

 
円丈「協力してくれなかったということではなくて、それを言えないよな。出戻りで。反逆者なんだから。軍隊だったら処刑されてるよ」

 
わん丈「他の人の力を借りず、高座にリング作るぐらい画期的なことで『ここに円丈あり!』っていうのを自分の力だけでやらなきゃいけないから三題噺ってことですね」

 
円丈「俺は自分のやりたいことをやってきたから。昔から。あまり特別なことをやってきたって意識はなかったな」

 
わん丈「三題噺はこれより前に寄席でやられた方っていらっしゃらなかったんですか?」

 
円丈「やった人はいたみたいだけど、投票するなんて人はいなかったし。勝敗なんて決するわけではない。札で投票してもらったのは、俺が初めてじゃないかな。負けも認めると。俺の下の世代が新作で三題噺をやった時もお客さんに投票させたみたいだけど、負けるとみっともないから、×の札を入れさせないようにしたらしいし(笑)」

 
わん丈「でもやり方を含め、三題噺を寄席のトリでやるっていう流れを師匠が始められたことは大きいです」

 
円丈「寄席のトリで三題噺をするってのはアリじゃないか。上がった時にお題をもらってそれを三題噺でやるって。でもそれができないってことがわかるんだよ」

 
わん丈「できるけどそれだと大したクオリティのモノができないと師匠が前におっしゃってました」

 
円丈「できる奴もいるけど、30分それを喋るってなれば無茶苦茶なこと言わないと…ノリだけだよな?だからやっても仕方がない」

 
わん丈「師匠の作品らしいアートな部分も、ってなれば制作に1日は要ると。てことは良い噺を高座で披露しても、終わって打ち上げで呑まないわけですよね?その日に頂いたお題で次の日にはまた違う新作を出すわけだから…」

 
円丈「喫茶店行ってコーヒー飲んだりとかな。たまにビールくらいは飲んだかもしれないけど…いや飲んでなかったな。そこで俺が一番楽しかったのは、皆が情報をくれるんだよ」

 
わん丈「皆というのはブレーンというか、師匠がそれまでに新作講座で教えた生徒さんみたいな?」

 
円丈「そうそう。昔ボールペンクラブってのをやっててな。素人とみんなで新作を作ってたんだよ。みんないい意見だすけど、俺はプロだからハナ差でも勝たなきゃいけないって必死だったな。二ッ目の頃だよ。そもそも三題噺をやろうと思ったきっかけも新作の作り方をマスターするためだったからな。そのときの仲間と、あとはお客さんもいたとは思うけど、もう見分けがつかない。みんな集まってくんの。多いときは20人ぐらいいたな」

 
わん丈「一つ疑問だったのが、初日の三題噺のお題はどうなさってたんですか?」

 
円丈「月曜日が初日だったから、土日挟んで前の週の金曜日にもらった。」

 
わん丈「なるほど。お客様は楽日が一番多かったと聞きました」

 
円丈「そうだね。楽日が一番盛り上がって、初日から数えて盛り上がってきた」

 
わん丈「それは徐々に浸透していって、口コミで『すごいことやってるぞ』と広がっていったんでしょうね。最後はお客様どのぐらい入られたんですか?」

 
円丈「80~90名じゃないかな」

 
わん丈「当時で、すごい人数ですよね。今やったら立ち見とかすごいことになりそうです」

 
円丈「当時の池袋は、土日でも40~50来たら結構な入りという風に思ってたんじゃないか」

 
わん丈「じゃあこの三題噺の興行は大成功だったわけですね」

 
円丈「成功か…どうなんだろう。大体寄席なんてもんは入らないもんなんだよ」

 
わん丈「今は入りすぎですか(笑)」

 
円丈「入りすぎ(笑)。20~30名が普通だもん。30だって多いよ」

 
わん丈「でもこの三題噺の興行で、落語協会に円丈あり!と知れ渡るんですよね?」

 
円丈「知れ渡るというか…俺の名前は少しずつじわじわと来てたんだよ。そこでも別にそんなに来たわけでもない。花王名人(劇場)とかテレビ番組に出て「グリコ少年」なんかやって、『こんな面白い奴がいるんだ!?』って思ってもらえて」

 
わん丈「それでフジテレビの方が三題噺の噂を聞いたり、ムック本がその後出たり。この三遊亭 円丈というのは新しいことに取り組んでいると」

 
円丈「俺の名前はその数年前から知ってる奴は知ってた。落語なんてそんなに見てもらえなかったしさ、すごく特殊な芸だったんだよ。だから逆に言うと新しいことをやるとすぐにマスコミは注目してくれたよな」

 
わん丈「その後まんまとスターダムじゃないですか。」

 
円丈「新作作り始めて何年くらいの頃になるのかなぁ。6~7年くらいかな。作り始める前から新作はずっと考えてたけどな。そろそろ寄席の時間じゃねぇか。もう俺出なきゃいけないだろ」

 
そう言うと、円丈は立ち上がりポケットに万歩計を入れる。いつものようにおかみさんがキッチリと着物一式、扇子、手拭いをくるんだ風呂敷が入ったカバンをスッと持ってくる。私はそれを持って師匠の後を追いながら、なんとかあの音源をこっそりダビングしたいなぁと見つめながら、「行って参ります」と師匠宅を後にした。

 

文:三遊亭わん丈

文字書き起こし:吉田食堂

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